クローバーの先輩とアフガンで再会
‐ クローバー講演会に際して‐ (2003年11月 講演要旨)
66年卒 渡邊 光一
私にとって、アフガニスタンは、クローバーの先輩と再会した忘れがたい思い出の地である。アフガニスタンを初めて訪れたのは、今から24年も前の1979年で、私が35歳の頃であった。あと一日か二日で、1980年(昭和55年)の元旦を迎えようかという暮れも押し詰まった時であった。
当時、テレビ局に勤務していた私は、西ドイツのボンに特派員として駐在して二か月足らずであったが、12月に入ると、急遽ボンからイランへの出張を命じられた。当時イランでは、ホメイニ師の革命によってパーレビ国王が国外に追われ、首都テヘランでは、ホメイニ師を支持する青年らが、アメリカ大使館を占拠して館員が人質になるという事件が起きていた。事件解決の見通しはまったく立たない状況にあった。
私の仕事の実態は、米大使館に出かけては、新たな展開が起きるのを見張るといった毎日で、あまり生産的な取材ではなかった。「正月はこのままテヘランで迎えることになるだろう」と思いながら、空しい取材を続けていた。
ところがその最中に、イランの東となりにあるアフガニスタンで、ソ連が武力侵攻するという大事件が起きたのだった。「テヘランの取材を放棄して、直ちにアフガニスタンに向かえ」との命令をうけた私は、インド経由でアフガニスタンの首都カブールに到着した。クローバーの先輩と遭遇したのは、そのカブールであった。
カブールで宿泊したのが、当時唯一の国際ホテルといわれたインターコンチネンタル・ホテルだった。ホテルのロビーに数名の日本人記者がいたが、その中にクローバーの先輩で外語大ロシア語出身の岡崎哲也さん(昭和39年卒業)がいた。当時岡崎さんは共同通信社の特派員としてモスクワに駐在していた。ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したのに合わせ、モスクワからカブールにやってきたのだった。
岡崎さんと会うのは、卒業以来実に15年ぶりのことである。クローバーではテナーであった。岡崎さんの思い出はいろいろあったが、学生時代に専攻のロシア語を生かし、アルバイトで蟹工船に乗り込んだ話を鮮明に記憶している。「ひと夏の間、鱈場蟹(タラバガニ)を飽きるほど食べたよ」という話は印象的だった。岡崎さんは饒舌デハナカッタガ、かといって寡黙でもなかった。濃い色のセルロイドの眼鏡の奥から、温和な眼差しがのぞいていた。
その岡崎さんをみつけて
「岡崎さんじゃないですか・・・」と私が驚きを見せると、
「やあ、渡辺君、今どこにいるの」と私の駐在地を聞いてきた。
「九月にボンに着任したばかりです。この事件で急にテヘランからこちらに移ってきました」
岡崎さんは、私より数年早く海外に出て、モスクワで活躍中であった。ホテルで一緒に食事をし、クローバー時代を懐かしんだ。
カブールで取材したあと、撮影したフィルムを持って、新年早々、空路インドのデリーに向かった。デリーでは「オベロイ」というホテルに泊った。岡崎さんも翌日カブールからデリーに出てきた。
「冬のモスクワには野菜がないので、インドで買ってゆく」という言葉が印象的であった。
その後10年余りして、私自身もモスクワ駐在を命じられたが、岡崎さんの「野菜の買出し」の意味が初めて分かった。
デリーでは、テヘランとカブールの緊張から解き放たれ、ホテルの隣にある「デリー・ゴルフコース」で岡崎さんとともにゴルフを楽しむことになった。スコアがどうだったか覚えていないが、プレーの後飲んだビールがうまかった。
岡崎さんと出合った時が、アフガニスタンに関心を持ち始めた最初だった。 この出会いから三年後、私はボン駐在のあとインドに駐在することになり、いくたびもアフガニスタンやパキスタンに出かけることになった。その後、ソ連にも駐在した。
今思うと、昨年アフガニスタンの現代史を執筆しようと考えた背景に、クローバーで歌った「しゃれこうべの歌」など戦争を否定する「歌の心」があったのは事実である。
青春時代にクローバーという組織で自然に培われた精神が、拙著の奥深い気持ちの中で一つの動機を形成した事実は疑いようがない。クローバーから得た大きな収穫であった。
ー 完 -
(寄稿者した渡辺光一氏は、1966年NHKに入社、外信部記者を経て、ボン、ニューデリー、モスクワ支局長を歴任、放送文化研究所主任研究員を退任後、駒沢女子大学教授<国際政治学・マスコミ政治論>を務めた。)
著書紹介 : 「アフガニスタン 戦乱の現代史」 渡辺光一著 (岩波新書)
高嶋正文(外大中国語科32年卒)
2003年11月30日、本郷サテライトにおいて、クローバー同窓会会員の渡辺光一さん(外大41年インド・パキスタン語卒)が「もっと世界を知ろう―<アフガニスタン 戦乱の現代史>」と題して講演を行なった。
この講演は、同年3月20日、渡辺さんが標記の著書を出版したのを記念して行なわれ、会員一同が同氏から直接お話を聞く機会となり、大変有意義であった。この著作の背景については、同氏が別頁「クローバーの先輩とアフガニスタンで再会」で詳しく述べられているので、ご参照願いたい。ここに同氏の著作の要点を紹介する。
1.世界の文明を結ぶ瑠璃の道
冒頭で著者は、五千年の昔から中央アジアで、シルクロードよりも古く、「瑠璃=ラピス・ラズリ」の道が存在していたことを指摘する。瑠璃は、アフガンを北東から南西に貫いて屹立するヒンドゥークシュ山脈の深い谷あいから掘り出され、神秘性とその美しさから、交易が広がり、世界各地に運ばれていた。
西方には、遠くエジプトまで運ばれ、ツタンカーメンの墓から見つかった「黄金のマスク」や、「スカラベ」という魔除けの彫刻に刻みこまれて、多数出土しているという。
一方、東方には瑠璃に対する信仰や薬効に由来して、瑠璃と共に、仏教の「薬師瑠璃光如来」(薬師如来)が伝えられたという。仏典を求めて、17年もの間(西暦629 ~645年)、インドを旅した玄奘三蔵は、バーミヤンからヒンドゥークシュ山脈を越えて、今のカブール地方に至り、更にペシャワール(古代のガンダーラ国の首都)に入ったと伝えられる。帰国した玄奘のもとには、日本人僧、道昭が留学して、経典を日本へ伝えた。「瑠璃の道」はインドから仏典が伝えられた道であり、アフガンと日本が文明の歴史において深くつながっていることを感じさせられた。
2.苦難に満ちたアフガンの近代化の道
イギリスとロシアのはざまで苦難を強いられていたアフガンは1839年から1919年の独立まで、三次に亘りイギリスとの間でアフガン戦争を戦う。独立を果たすことが出来たのは、イギリスの国家戦略がインドに重点が向けられていた間隙のことだ。トルコのケマル・アタチュルクが同国を独立に導いた(1920年)のと相前後する。
著者は、苦難に満ちたアフガンの近代史を、侵略する側の本国の情勢を関連させながら詳述する。見事な世界史の教科書である。小生は思わず世界史の参考書をひもといていた。
3.アフガンの未来に対する願い
移行政権の大統領に選ばれたカルザイさんの帽子は、アストラハンで作ったカラクル帽、暗殺されたマスード司令官がかぶっていたのは、黄土色をした大福餅のようなパコール帽、そのほか色々な帽子や衣装があって、それらは混在して生きる各民族のシンボルという。パシュトゥーン人でありながら、タジク人がかぶるカラクル帽をかぶって登場したカルザイさんに著者は、アフガンの民族融和へのメッセージが込められていることを指摘する。
誰でもが知っているキイワードを巧みに使って、著者は長い複雑な歴史を明快に解説して下さっている。時にはアフガンの民衆に対する優しい眼差しさえ感じさせられる。
門外漢の小生が遠慮なしに読後感を書かせて頂いた。このような名著を出版して下さった著者に深く感謝を申し上げると共に、是非一読をおすすめしたい。