S君を悼む
64年卒 白鳥貞夫
2018年3月6日、S君が亡くなった。享年75才。難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症して2年、終えるには早すぎる生涯だったが、穏やかに死を受け入れ、病を得て知った人とのつながりに感謝しつつ旅立たたれた。(敬愛するS君だが、小生が1年先輩ということで君付けをお許し願いたい。)
1年前の2017年3月、S37年卒以降のOBの集まりは、S君の体力を考慮してご自宅近くの戸塚に会場に設けた。障害を感じさせない外見とふるまいで、昔のままの美声も披露してくれたが、「白いバラ」の指揮を頼むと右手が上がらないと遠慮され、改めて病の進行を知った。忘年会の案内には欠席の回答に添えて呼吸機能維持で歌い続けていると記され、少し安心していたが、年末に高熱を発し緊急入院すると奥様からお聞きした。
病床のお見舞いをためらっていたが、元指揮者のS先生から出来ればとの相談があり、奥様にお尋ねしたところ、少し安定した状態なのでどうぞとのお返事をいただき、横浜市立みなと日赤病院を訪れたのは2月25日だった。病床のS君はALSの症状が急速に進行し、手足が脱力して発声できず、唇が少し動くだけだった。意識はしっかりして耳も聴こえるので会話は可能とのことで、奥様が微かな唇の動きを読み取って通訳すると、そのとおりと表情に表した。15分ほどで退出するつもりだったが、クローバーの昔話がはずんで1時間近く経っていた。また来るからねと言うと、伝えたい事があるように唇が動いた。「クローバーは僕の原点だった、だよね」と奥様が念を押すと、深く確認の表情を示した。訃報を受けたのはその9日後だった。
S君がクローバーに入ったのは1961年(昭36年)で、2年生で参加した小生と同期になる。当時のクローバーはうたごえサークルから音楽団体に変身する途上にあった。うたごえ運動は日本の近代化で欠落していた市民意識の生成という点で重要な意味があり、その中で歌われた曲には優れたものもあったが、政治的メッセージを前面に出した曲が多かった。メッセージソングも音楽の一つの側面だが、様々な音楽に触れるにつれて物足りなくなる。魂を揺り動かす芸術としての音楽を求めて、クローバーが古典音楽に取り組むようになった時期である。
この時代のクローバーを音楽家として牽引したのが指揮者のS先生であり、S君は持ち前の美声と歌唱力に加え、言い争わずに人を納得させる円熟した人柄で、学生指揮者として活動の実質的な中心になった。クローバーが定期演奏会を行うようになり、メインレパートリーがショスタッコービッチの「森の歌」、「十の詩」からモーツアルトの「戴冠ミサ」、「レクイエム」へと展開していったことに、会の変化が具体的に表れていたと言えよう。
卒業後、S君と小生はクローバーOBを中心に「アカデミア混声合唱団」を結成して定演活動を続けた。宗教音楽、クラシック名曲に加え、日本の現代作曲家への委嘱曲を含めて意欲的に活動し、会員の減少とレパートリーの変化に合わせて団名を「現代室内合唱団」、「現唱」と変えたが、次第に演奏活動の継続が困難になり、1979年に活動を閉じた。
その後S君と小生は夫々海外勤務に就き、1985年夏にニューヨーク郊外のS君宅を訪れたこともある。その後小生は音楽と疎遠になってしまったが、S君は多忙な職務の傍ら職場合唱団のリーダーとして高度な演奏活動をリードし続けた。
晩年のS君はクリスチャンとして教会の長老を務め、葬儀はその教会で営まれた。数百名の参列者を前に牧師がS君の生涯と人となりを披露し、その中で「Sさんは偉い人と聞いていたが、どんな立場の方だったのか亡くなって初めて知った」と語られた。大手商社の上級役員を務め、退任後に競争会社と合同の新会社の会長に就いた。聞いただけで逃げ出したくなる役職だが、ビジネスの難しい場面でも、決して言い争わず誰もが納得できる筋道を穏やかに示す彼のやり方が貫かれ、「Sさんの言うことなら聞こう」というコンセンサスが築かれたに違いない。
そんなS君が微かな唇の動きで語った「クローバーが自分の原点」に、音楽と疎遠になった小生も強い共感を覚える。クローバーが「青春の思い出」に留まらず、その後の我が人生のバックライトとして灯り続けてきたことを改めて噛みしめつつ、心よりご冥福を祈る。
2018年5月記